生石岬の侍伝説

出石神社の境内には、海賊との戦いで切腹して果てた大館主膳正有光(おおだてしゅぜんのかみありみつ)と、桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)の二人の侍が祀られています。

江戸時代の書物には、この物語が次のように記されています。

生石崎の侍伝説

江戸時代の書物『淡路国名所図絵』には、大館主膳正有光(おおだてしゅぜんのかみありみつ)と、桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)の、二人の侍にまつわる伝承が、次のように記されています。

阿波細川家が調達した弓矢を満載した大館主膳正有光の船が海賊舟数十艘に襲われた。主膳と家来は調達した弓矢で応戦し、海賊舟は怪我人や死者であふれ容易には主膳の船に近づけなかったが、ついに主膳も重傷を負い矢も底をついた。

主膳は船尾の屋根へ駆けあがり、声を張り上げて 「私は海の底から、欲にまみれた外道共の妨げと成るのだ。」 と言い残し、切腹して海に身を投げた。家来たちも後を追い切腹し、船に火をかけて焼け死んだ。 それからこの海が静まったことがない。

又、近年三好実休(みよしじっきゅう)が堺に遣わした桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)も、生石崎表で海賊船数十艘に襲われ討死した。 このことで更に海は荒れたので、実休は高僧数十人に六万巻の陀羅尼を誦させ、侍たちを権現に祀ったところ、 海は静まり今に至っているという。

『淡路国名所図会』より

御石権現社(をいしごんげんのやしろ)
同所生石社の東にあり討死の武士を祝い祭るなり

三好記曰 淡州由良の湊の西御石崎に近年海上物騒しく潮の光渡事夕陽の沈めるが如く 海底の鳴事百千の車を轟かすが如し 漸(やや)もすれば往来の舩に風波の悩をなし 破損するを其数をしらず 浦の漁夫ども是を苦しむ事言ふばかりなし  その来由を尋ぬるに 先年阿波の屋形細川殿御代(ごだい)に弓箭(ゆみや)あまた調させ給んため 大館主膳正有光といふ侍を和泉の堺へ遣はしたまふ処に 有光おもひの侭(まま)に兵器を調へ 急ぎ舟に乗て順風に帆をあげ泉州谷川表を吹れ下る処に 和泉の谷輪の海賊舟淡州の諏本の海賊船ども主膳が船を目がけ付来りて御船へ物申さんといふ 又紀州の田辺雜賀の海賊舟数十艘馳来りし 主膳が舩に矢を射る事雨の降るがごとし 主膳これを見て悪(にく)き奴原が行跡(ふるまひ)かないで物見せて呉んといひて 船屋形の内より例の剛弓とり出し取つめ引つめ化矢(あだや)もなく射けれバ 同じく舩の内より究竟(くつきょう)の射手ども数多矢を射出したる程に 海賊舩にハ手負死人あまた出来けれバ左右なく近づき得ず 主膳も深手浅手負矢種つきたれバ 船の艫(とも)屋倉へ走り上りて高声に言たるハ 日頃おのれら海上にて盗こそは仕つけたり共 侍の最期の仕義見聞きことも有まじ 是を見おきて物語にせよ 我海底に入て欲心不道の奴原に障碍(しょうげ)をなさん物を  と訇りて腹十文字に搔切きりきつさきを咥へ浪の底に逆さまにに落ちて失たる 残る侍ことごとく腹を切舩に火をかけ焼死たるとなり 夫より今に至るまで此海の騒しき事止時なきに 又近年三好実休(みよしじっきゅう)より桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)といふ侍を堺へ兵具調へに遣はし給ふ処にくだんの御石崎表にて海賊舩数十艘付来て隼人亮も討死す 是より猶騒しく成て往来の船どもに風波の悩をなす事止時なし故に実休の仰として尊き僧数十人供躾(くよう)して六万巻の陀羅尼を誦(じゅ)し亡びし侍共を権現に祝ひたまひてより今に至るまで此海しづまり往来の船に障りなきとぞ聞へし

解説

『淡路国名所図絵』
嘉永4年[1851] 江戸時代の淡路の地誌で暁鐘成(木村明啓)の編纂。

『三好記』
三好氏の阿波細川氏放逐から長宗我部元親による三好氏の没落までを描く。著者は福長玄清。序に「于時寛文壬寅 [1662] 孟冬上澣 桃溪山人稿」とあり。

【欲心】よくしん/欲深な心。
【不道】ふどう/人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
【仕儀】しぎ/物事の成り行き。事の次第。特に、思わしくない結果・事態。
【障碍】しょうげ/障害。特に仏教で、さまたげとなるもの。

阿波細川家
阿波細川家は下屋形あるいは阿波屋形と称される、室町幕府の相伴衆を務める家柄で、当主は幕府の宿老会議にも度々列席するなど、京兆家に次ぐ細川家として高い家格を有していた。

三好実休(みよしじっきゅう) 1526~1562
戦国時代の武将。三好氏の本拠である阿波国のほか讃岐・河内などを治めて三好政権の一翼を担う。紀州の畠山高政と対立し、永禄4(1562)年の畠山軍の合戦で流れ矢にあたって戦死したという。

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