社殿

御祭神と御利益

御祭神

速秋津日古神【はやあきつひこのかみ】

速秋津比賣神【はやあきつひめのかみ】

品陀別尊【ほむたわけのみこと】

速秋津日古神と速秋津比賣神は、川の河口や港にいらっしゃる水戸神(みなとのかみ)で、祓い清めを司ります。黄泉の国から戻った伊邪那岐命が禊をしたときに成りました神々です。

品陀別尊は、「八幡さん」と尊ばれ親しまれる、第15代応神天皇の御神霊で、由良湊神社が地域の人々から「はちまんさん」と親しみを込めて呼ばれる所以です。
皇室からは国家泰安の神として、武家からは武運長久の神として尊ばれ、凶事や災難をことごとく打ち払う神様です。また、応神天皇の母神の神功皇后は、出産・子育ての神様です。

境内

由緒

由良湊神社は『延喜式神名帳』にもその名が記された、歴史ある神社です。

当神社の創立年代は不詳ですが、この地に居住していた人々によって、由良水門の鎮護として祀られたものと思われます。

中世の状況については、『朝野群載』に僅かな記述があるのみで詳細は不明ですが、八幡神の信仰が全国的に盛んになるにつれ、いつしか八幡宮が祀られたようです。

近世、成山城城主の池田忠長が、現由良小学校地に在った八幡宮を再興して氏神と定め、由良湊神社を境外摂社としました。

次いで、阿波・淡路両国の領主蜂須賀氏も成山城を居城としましたが、寛永年間に「由良引け」を断行し、国府が洲本へ移りました。

この時、藩邸を築く為に八幡宮を湊神社の境内に移して社殿を造営しました。

明治3年に両社を合併し、延喜式の社名「由良湊神社」として現在に至っています。

旧社殿

戦後間もなくの様子

この写真は、連合町内会会長さんから頂いたもので、戦後まもなくの「ねり子まつり」の様子です。

当時の社殿は木造で、手前が拝殿、奥の高い屋根が本殿、向かって左側が社務所であったということです。

目を引くのが2台の布団だんじりです。現在のものほど大きくありませんが、布団締め等の飾りの意匠は、今に受け継がれているようです。

また、よく見ると布団だんじりの奥に、ねり子とその一族が、画面右から左へ列をなして歩いている様子が見て取れます。これは祭典時に当神社の周りを3周廻る風習で、今も受け継がれています。この風習は江戸時代の文献にも記されています。

由良駅

古代の由良

「淡路」の地名は「阿波に行く路」に由来すると云われますが、
鎮座地の由良は淡路上陸の要所として古より栄え、
延喜の制では由良駅が置かれ馬五頭が配されていたほどでした。

成山

成山城【なるやまじょう】

慶長18年、池田忠雄が由良成山に築城したのがはじまり。元和元年、淡路国は阿波徳島城主蜂須賀氏に加増され、岩田・笹田氏を城番とした。寛永の由良引けで本拠が洲本城へ移され廃城。

由良引け【ゆらびけ】

由良は海上交通の要衝であるが城下町を造る余地はなく淡路一国を支配する地として適さないとして、寛永7年(1630)に洲本に移転する旨が承認され、寛永8年(1631)から同12年(1635)にかけて洲本に城を築き、政庁・寺院・武家屋敷・商家などを移したこと。

延喜式 【えんぎしき】

平安中期の法典。延喜五年醍醐天皇の命により、藤原時平・忠平らが編集。弘仁式、貞観式以降の式を取捨し、集大成したもの。

朝野群載 【ちょうやぐんさい】

院政期の詩文集。平安中・後期の詩、文章、各種古文書などを集成し、部類したもの。

   

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